50代主婦、インターと私立校の教育費をふりかえる

教育

こんにちは。まよこです。

ご訪問いただきましてありがとうございます。

私のモットー

突然ですが、現在私のモットーとしていることをご紹介します。

と書いてみて、「ん?モットーってもしかすると死語?」

と不安になりました。確かに、娘たちが使っているのを聞いたことがない。。。

モットーとは、生活信条、座右の銘、人生訓、スローガンですよね。(類語辞典による)

では、私の生活信条(モットー)は

「貯金!貯筋!断捨離!」

です。けっこうあたりまえのことでした。すみません。。。

今回のブログでは、ひとつめの「貯金!」について、我が家の壊滅的な歴史を振り返りながらご説明します。

主に教育費の話になりますが、ここではあくまでもお金の面だけに目を向けた話をさせていただきます。

決して教育内容や学校の質についての批判ではありません。

むしろ良い先生方やお友達に出会えて、娘たちは幸せだったし、それは金額をつけられない価値あるものだったと家族全員で思っています。

でもね。。。でも、正直、お金、かけすぎました。。。

貯金ができなかったことについて

こちらは過去ブログでもご紹介していますが、我が家は50歳になるまで全く家計管理をしないで自転車操業で生活してきましたので、貯金がほぼありませんでした。

夫の年収が当時(50歳時点)1200万円でしたので、月の手取りが74万円(ボーナスなし)でした。

住宅ローンと車代、保険代を引いても、生活費として40万円ほど毎月夫から振り込んでもらっていたし、私もパートの手取りが10万円くらいあったので、合計50万円!

余裕で貯金はできたはずなのに。

記録すら取っておいていないので、記憶に頼るしか無いのですが、浪費の原因は。。。

娘たちをふたり、幼稚園からインターナショナルスクールに入れていたこと。

これはね。。。もう、因縁が因縁を呼ぶというのでしょうか。。。

なぜインターナショナルスクールだったのか

古い話になりますが。。。簡単に夫婦の経歴をご紹介します。

・26歳で結婚して、本社の辞令でアメリカへ駐在

・夫が退職してそのままアメリカのMBA(ビジネススクール)へ。

・29歳で夫無事卒業し、そのままアメリカで就職

・30歳で長女を、34歳で次女をアメリカで出産

・36歳で日本に帰国

帰国するときに長女は6歳。学校をどうするかという話になりますよね。

多くの駐在員の方々にも共通の悩みだったのですが、帰国子女枠で私立に転入する、というのが王道だったかと思います。

我が家の場合、夫は中国系ハーフだったため、高校まで日本のインターナショナルスクール(以後インターとします。)に通い、大学はアメリカに留学していました。

就職は日本でしたが、結婚後10年アメリカ生活を送ったという経緯から、できれば娘たちもインターに、という希望がありました。

「自分がここまでこれたのは、英語が話せたおかげ。」と良く言っていましたから。

私は普通のOLから急に結婚して海外生活に入ってしまった浦島太郎状態であったことに加え、長い間英語が話せる夫に頼りきる生活だったため(楽だったのです。)夫の意見に特に反対もしませんでした。

今はそんなことないですよ!がんがんモノ言う恐妻です。

当時は今のようにネットが普及していない世の中だったので、知識、評判、比較、などの情報量が乏しい中での選択しかできませんでした。

ここが私達の間違って曲がった最初の角でした。

日本でのインターナショナルスクール生活

娘たちはアメリカ国籍がありましたので、日本のインターには難なく入学許可され、学校へ10分くらいで通える町に住むことにしました。夫の会社へも40分くらいの距離です。

この街はもともと外国人が多く住んでいて、最寄り駅へは歩いても30分かかるのですが、バスが頻繁に通るし、自然も残っている住みやすく、美しいといってもよい町です。

当然借りても買っても不動産は高い。。。ここに住んだことも経済的な面から言えば間違った曲がり角でした。(環境、教育にはとても良いのですが。)

インターの学費は当時1年で200万円かかります。もちろんひとりの値段です。

帰国当時夫の年収は1500万円ほどでしたので、まあ、いけるだろう、くらいの気持ちで始めた新生活でした。

家は2階建て一軒家を月18万円で借りました。

アメリカから連れてきた犬が2匹(中型)いたので、入居できるマンションはみつかりませんでした。

インターに通うということは、学費だけでなく、様々な出費地獄が待っています。

そもそも日本に駐在している外国人(学費・家賃などは会社が負担している)か、死ぬほどお金が余っている自営業、開業医、弁護士などの日本人、もしくは親が卒業生という家庭しかいないので、クラスにもサラリーマンの家庭はうちを含め2家族ほどでした。

お金があっても、外国籍や2年以上の海外生活経験がないと入学が難しかったので、インターに子供を通わせるのは、それはお金持ちにとってステータスにもなっていたようです。

当時のインターママで仕事をしている人はごくわずかでした。

おつきあいも多く、ホテルランチ、サロンでの習い事、家に招いたり招かれたりのお茶会、子供の誕生パーティなど、外国人ママもいますから、それはそれはいろんな形の行事がありました。

学校の課外活動では楽器がほぼマストでしたので、うちもバイオリンを習っていました。(全くものになりませんでしたが。笑)

そのほか習い事もお友達と一緒にスイミング、お絵描き、書道、バレー、英語までやりました。

インターは9月に新年度が始まり、6月の初旬には学年末になりますので、夏休みは3ヶ月ほど。その他の休みも多く、外国人は国に帰り、リッチな日本人は年に2回は海外旅行です。

そんなのにはつきあう必要は全くなかったのですが、私も若く、10年のアメリカ幽閉生活の後でしたので、リッチな日本人生活を楽しみたかったのですね。

グリーンカード保有のこと

それに加えて、私達夫婦はアメリカのグリーンカード保有者でしたので、年に一度はアメリカのどこかに入国履歴を残さなければカードを剥奪される恐れがあったのです。

グリーンカードは外国人がアメリカに永住できる権利で、移民ならだれしも喉から手が出るほどほしいものです。

修得基準は年々難しくなっているそうですが、我が家の場合は夫の会社がサポートしてくれたために、それでも5年位かかってとることができたので、夫には簡単に手放せない権利だったのです。

なので、毎年一番近いアメリカ、グアムに家族で旅行に行っていました。

こんな生活で貯金なんてできるわけありませんよね。

インターから私立の小学校へ転校

そうこうしているうちに、不況で夫の年収はだんだん下がって1200万円になってしまいました。(しばらく私に内緒にしていたみたいです。)

その時には借りていた家の近所に土地を見つけて家まで建ててしまっていたので、(いったい何を考えていたのか?いや、何も考えていなかったのでしょう。)いよいよインターに通わせるのが難しいと、さすがの私達も気づきました。

長女は10歳になっており、次女は6歳でした。

次女はともかく、長女はバイリンガルでしたが日本語能力が弱くなってきており、漢字や日本の社会について全く何もしらないことに気づき、私も子供たちの将来について考えました。

このままインターを卒業しても、海外に留学させる余裕はない。夫が今後海外で働くことも多分ない。よって子供たちはいずれ日本の大学を受験することになる。でも、ここまでのんびり育ててきた我が子たちが熾烈な日本の大学受験に耐えられるだろうか???

まあ、今から思えばやらせればよかったのですが。ここでまた曲がり角を間違えてしまったのです。

子供たちからは、このときの私達の選択については感謝されていますから、結果は良かったのですが。。。

私立の小学校の生活

経済的にインターに通わせられない時点で学区のレベルも良かった地元の公立学校に転校させるのが正解でしたが、私の見栄と、過保護がじゃまをして、子供たちは二人共同時に帰国子女枠で大学付属の私立校の小学校に転校しました。

通学には片道1時間かかります。次女は小さかったのでかわいそうだったな。。。

学費はインターに比べると格安!というべき値段でしたが、それでも高校卒業までの2人に教育費はかなりのものになりました。

相変わらずママ友との付き合いは派手でしたが、働くママも少しはいて、家庭状況も似ている人が多かったので、私にも良い友達ができました。

しかし!今から思えば真の正解はここでまだ若いうちに、私もきちんと仕事をみつけることでしたね。まさに”蟻とキリギリス”のキリギリスのように遊んでいた私。。。

ランチのレストラン情報を熱心に探し、もはや衣装ともいうべきランチ用の服を買い漁り、とは言い過ぎかもしれませんが、もう、ばか!ばか!と後ろから蹴ってやりたいです。

娘たちはふたりとも英語はダントツにできましたし(良かった。涙。)勉強もがんばったので、大学は推薦で都内の一流と言ってもよい大学に入学できました。

大学費用は随分前に亡くなった夫の両親それぞれの遺産を、奇跡的に使わないで取っておいたのでそれで全部支払えました。

これには本当に感謝しています。でなかったら、ローンを組まなくては賄えなかったはずです。

そして現在

長女は既に就職し、次女は就活も終わった4年生なので、学費支払いももう少しです。

グリーンカードは50歳を目前として、返却することにしました。もうグアムには行っていないです。

こういうわけで、全て自業自得な理由で50歳まで貯金ができませんでした。

教育費も住宅費も人生では一番大事と言っても良いもので、思う存分これにかけられたのはある意味幸せでした。

特に夫は自分の全てを仕事に投げ売って家族のために働いてきたのですから。

実際彼はいつも楽観主義者で、「あのとき、ああすればよかった。」なんて一度も言ったことはないし、今もとても満足しているようです。

こういうマインドは見習わなくては!と思うこともありますが、今後はかわりに私が指揮をとって、少しでも夫婦の老後のための資産作りに全力を尽くさねば!と思っています。

次回は”モットー”その2の「貯筋!」について書いてみようと思っています。

おまけ

夫が中国人の方からお土産にいただいたホワイトティーです。

あまりに私好みの色なので、のせてみました♡

茶葉はこんなふうに凝縮されていました。香りが華やかで渋みのない烏龍茶って感じの、おいしい中国茶でした。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございました♪

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